一日に一本ずつ映画を観ている。7/29に『クレイマー、クレイマー』を、7/30には『メランコリア』を、7/31には『アメリ』を観て、8/1はサボり、8/2に『ものすごくうるさくてありえないほど近い』を、8/3に『ワンダフルライフ』を観た。三日坊主も休みを挟んでまた始めれば努力になる。そんなようにしてこの夏休みを過ごしている。
『ワンダフルライフ』(是枝裕和,1999)を観るのは二回目だ。一年と少し前、大学の授業で観せられて以来それこそ雪が降りしきるようにこの映画が心に残っていた。
この映画は「映画を撮る映画」である。ドキュメンタリーあがりの是枝裕和監督が、その手法を大いに活かしドキュメンタリーとフィクションの境い目を問うている。と同時に、成仏に至る直前の死者たちを描いている。彼らは言うなれば生者と死者の間にいる存在である。つまりこの映画はどこまでも「あわい」の映画なのである。
映画には四人の若者が登場する。職員の望月(演:ARATA)としおり(演:小田エリカ)、施設に招かれた死者の香奈(演:吉野紗香)、そして最後には施設に残ることになる死者の伊勢谷友介(演:伊勢谷友介)である。彼らを含め、死者たちの直接的な死因は一切語られない。そのため観客には彼らの生前を想像する余地が与えられている。
香奈のエピソードが印象的だ。スプラッシュマウンテンに乗った思い出を楽しそうに語っているが、しおりが「あなたで三十人目なの」と諭すことで思い出を変える。ディズニーランドのようなありふれたものではない、自分にしかない思い出を選ぶべきだ、とも取れる発言だが、終盤にかけて「あれ、そういうことでもないんだな」と思わせられた。
というのも、映画後半で行われる撮影風景を眺めていると、死者たちの思い出が案外普遍的なものであるように感じられてくるのだ。竹やぶでのピクニックやセスナ機から見える雲の眺め、「赤い靴履いた女の子」など、一見その人個人にしかない思い出のように見えて、その時代、その状況にいた人々であれば似たような出来事はどこにでもありえる。
渡辺一朗(演:内藤武敏)とその妻・京子(演:香川京子)、そして望月が選ぶベンチの思い出も同様だ。公園のベンチで二人並んで話をする。そのシチュエーション自体はどこの誰にでも起こりうる。
つまり大切なのは固有性ではない。それよりも、「思い出を模した映像によって想起させられる感情」の方が大切なのだ。
映画のクライマックスで望月は、渡辺夫妻と同じように公園のベンチに佇み「カメラの周りにいる人々」を見る。「試写室」(シシャシツ、という響きはどこか「死者室」とのダブルミーニングのように感じられなくもない)でその映像を観るわけだが、ベンチに佇む望月、そのクロースアップ、そしてその切り返し(=カメラの周りにいる人々)という3カットで映像は構成されている。しかしながら、劇中にカメラが一台しか登場していないことを考えると3カット目でカメラが映るのはおかしい。つまりこのカットは望月の主観カットであり、映画内映画のカットではないのである。これが「映像によって想起させられる感情(=記憶)」だ。おそらく望月は、「ベンチに佇む自分」という映像を眺めることで、「映像を撮っている仲間たち」という記憶に思い至り、それだけを持って成仏することができたのだ。
映画を観ていると様々なことに思い至る。「ああしておけばよかった」ということ、「ごめんなさい」という気持ち。誰かに感謝したくなりもするし、「明日はこうしよう」とさえ思わされる。このように観客に様々なことを考えさせるだけの“時間の糊代”を与えるのが、映画の魅力ではないだろうか。『ワンダフルライフ』は、そんな映画と記憶、時間そのものを揺さぶる力を持つ映画だった。