一日に一本ずつ映画を観ている。8/3は『ワンダフルライフ』を、8/4は『ヘレディタリー/継承』を、8/5は『チョコレートドーナツ』を、そして今日8/6は『ボーはおそれている』を観た。このブログは映画を観た翌日に執筆している。今日は昼間に映画を観たので、昨晩に観た『チョコレートドーナツ』と先ほど観た『ボーはおそれている』を同記事の中で感想を綴ることにする。
『チョコレートドーナツ』を貫く哲学
『チョコレートドーナツ』(トラヴィス・ファイン,2012)は実話を基にした映画である。とあるゲイカップルが、ひょんなことからダウン症のある少年を保護し、家族になろうとする物語だ。「実話を基にした」という触れ込みが厄介で、というのもその実話というのが「ゲイの男性が育児放棄された障害児を育てた」という端的なものであるからだ。つまり、映画で語られている展開や悲劇的な結末はすべてフィクションである、ということになるわけだが、この点について言い方は悪いが「がっかりした」という感想も少なくない。私はと言うと、「良かった、マルコは死なずに済んだんだね」と安心したのが本音である。
しかし留意すべきなのが、脚本家はあくまで例の“実話”をアイデアの種にしたにすぎないということだ。脚本家は当然、アイデアを膨らませるために取材をする。その取材の中で目の当たりにしたことが、映画に反映されていないはずがない。つまり、現実のマルコが死んでいなくとも、別のマルコが、ルディが、ポールがあのような形でなくとも存在していたということなのである。映画を通して感じたように、差別や偏見、そして彼らが生きづらくなっている「障害」が、現実にはある。それはフィクションであろうがなかろうが、揺るぎない事実である。
映画を観ていて、マルコという存在が妙にご都合的というか、記号的に見える節があった。ダウン症のある方と交流をしたことがなく、知識としてもあまり多くを知らないため大きなことは言えないのだが、いくらなんでもマルコが「善」すぎやしないか。アンクル・トム的な描き方というか、もっとマルコの厄介な部分を描写しても良かったのではないだろうか。朝、おなかが空いたと話すマルコがねだった「チョコレートドーナツ」というあのくだりは、確かに「わがままな子」という印象を与えはするが、ダウン症という病気の(嫌な)側面を描き切ってはいない。清濁併せ持つのが人間だ。もう少しその「濁」の部分を描く必要があったと私は思う。
しかしながら、裁判でポールが放った「背の低い太った知的障害のある子どもを引き取ろうとする大人はいない」「私たち以外に」という台詞には痺れた。また、「麻薬依存の母親も他の子と違うこともあの子が望んだわけじゃない」という台詞にも、映画を貫く哲学のようなものを感じた。ダウン症のある人の苦しみとゲイである人の苦しみは違う。しかし、この社会の中で「弱い方に立たされてしまっている」ことは共通している。それは決して彼ら自身が「弱い」のではなく、社会の側が、勝手に彼らを虐げているのである。ゲイだから子供は持てないのか。仕事もさせて貰えないのか。ゲイであることは罪か。子供の前でキスするのがなんだ。男女の夫婦がキスするのは良いのか。
さすがに現代ではそのような偏見や差別がまかり通ることはないと信じたいのだが、同性婚が未だに認められていなかったり、「ポリコレには飽きた」とするインターネットでの意見を観察していると、時代はあまり進歩していないように感じる。『チョコレートドーナツ』には、そんな社会を穿つだけの力があるし、穿ちたいのだという怒りが芯となって通底している。その点が良かった。悲劇的な結末であることも、映画の読後感を唯一無二のものにしている要因だと感じる。
だがやはり、マルコについての描写は圧倒的に少なすぎると思う。特に、麻薬中毒の母が記号的すぎる。彼女には彼女の苦悩がある。夫はどこに行った。マルコの手のかかる部分は何だ。生計はどうやって。そしてルディが何度となく話す「施設での暮らしは良くない」という部分は描かないのか。ルディとポールが抱える怒りと受けてきた差別に重きが置かれすぎていて、マルコの描写がやはり一面的すぎるのである。その点はもう少しバランスを取る必要があったと思う。
とはいえ、もしマルコがもっといじめぬかれていたりする描写があったなら、この映画の「抜け感」とか「スっとした感覚」は生まれなかっただろう。
『チョコレートドーナツ』は感動ポルノだ、偽善だ、という意見もあるようだが、そう言いたくなる気持ちはわかりつつも、だからと言ってこの作品を全否定するつもりは私にはない。映画に通底する怒りが表象から伝わってきた以上、あの映画は映画になって良かったのだと思うし、観た甲斐があった。良い映画だと思う。使い古された表現だが、「やらない善よりやる偽善」なのだ。
『ボーはおそれている』の怖れの正体とは
『ボーはおそれている』(アリ・アスター,2023)は、非常にヘンな映画体験だった。筆舌に尽くしがたい、というのが本心だが、書かなきゃ消化しきれない気もするのでやはり書く。
「いつ夢オチになるんだろう」と思いながら観ていたのだが、ついぞ夢オチにはなることはなかった。それが凄い。冒頭から終わりまでずーーーーっと幻影的かつ悪夢的な展開が続くのだが、「実は夢でした」に頼ることなく悪夢のまま終わる。ある意味紳士的だ。評価すべきことだと思う。夢オチに頼らないことで、この物語を寓話的な価値のあるものに留めている。
では、その「寓話的な価値」とはいったいなんだろうか。この映画は様々な読み方ができると思う。それこそ同じホアキン・フェニックス主演の映画『ジョーカー』のように、「実はここからが妄想で~」と読むことだってできる。映画全体がボーの心象風景なのだとすれば、母の抑圧や父の不在、ボーを助けようとする人々が悉く死んでいくことなどを、フロイト的に読み解いていくことが可能だろう。
あるいは、映画で描かれていることをそっくりそのままその通り受け取るのだとすれば、母親に仕組まれた旅路の中で結局大人になれずに断罪され死んでしまうボーの最期、ということになる。その視点から「謎解き」をするのもまた楽しいだろう。
私はと言えば、この映画を『ヘレディタリー/継承』のような解かれるべき謎が散りばめられている映画、というよりは、表象そのものをじっくりと長期的に考えていきたい難題、という風に捉えたい。そのうえで一旦結論を出すのだとすれば、やはりこの映画は「母の偏愛によって歪められた男の心象風景」なのだと思う。
『ボーはおそれている』。では、何におそれているのだろう。冒頭、セラピストとの会話の中で見えてくるのは「母が死ぬこと」あるいは「母に死んでほしいと思っていること」そして「その感情が母にバレること」である。恐怖の対象は一貫して母に起因するものである。彼は大人になりたくてもなれない。いつまでも「僕はどうすればいい」と問いかけるばかりで、外の世界をおそれ、自分から踏み出そうとはしていない。それは彼自身の問題でもあるが、やはり母の問題でもある。子離れしていない母親。子供の性に干渉してくる母親。その関係は癒着しきっていて切れそうにない。切ろうとしても、その財力や権力によってがんじがらめにされている。この映画は、オヴィッド仰る「永遠の少年」を題材にした映画なのだ。
映画を一言で語るのは難しい。言葉を尽くしても語り切れないほどだ。未来、このブログを読み返した時に、「それは違うだろう」とか「言いきれていない」と感じることが必ずあるはずだ。その時はまた語りなおそうと思う。当然のことだが、私がつづっているのは唯一の正解などではなく、書きながら考え、考えながら書いている心の漂流物に過ぎない。これを読んだ誰かが、その誰かの中にある無二のものをまた、語ってくれることを願っている。